本丸刀剣調査~籐四郎兄弟~
こんちちは、甘酒です。
前回の本丸刀剣調査~陸奥守吉行~に引き続き
今回は初鍛刀の薬研籐四郎についてお話して行こうと思ったのですが
薬研について触れるとなると
もちろん刀工は他の籐四郎兄弟を打った粟田口籐四郎になります。
今後他の籐四郎兄弟をお話しする際に内容が被ってしまったり
同じ内容を繰り返し記述することになってしまったりと
類似した記事が出来てしまう可能性がある為、今回はいっそのこと
籐四郎兄弟についてお話していきたいと思います。
お話しきれない箇所や漏れもあるかと思いますが
新しく分かったことや、書ききれなかった話については
今後の投稿の中で補正や、修正、追記という形をとらせていただきます。
ご了承ください。
--------------------------------------------
現在、刀剣乱舞に実装されている粟田口ですが
その中でもまた少し組み分けが違います。
そもそも粟田口というのは鎌倉期に京都の粟田口(東山三条~蹴上の地)に
「粟田口国家」という人物が開いた刀工の一派です。
そして、国家の子は「粟田口六兄弟」と呼ばれています。
そしてこの粟田口六兄弟というのが
刀剣乱舞の仲で粟田口の中の分類の分かれになります。
【長男 粟田口国友】
【次男 粟田口藤次郎久国】
【三男 粟田口藤次郎国安】
【四男 粟田口国清】
【五男 粟田口有国】
【六男 粟田口国綱】
銘から今回実装された「鬼丸国綱」は
「六男 粟田口国綱」の作であることが分かりますね。
(鬼丸国綱の号については、また別の記事でお話したいと思います。)
さて、上記の粟田口六兄弟。
「あれ?」と思う方もいらっしゃると思います。
刀剣乱舞に多く実装されている「刀工 粟田口籐四郎」
いなくない?
そうなんです、
実は粟田口籐四郎はこの粟田口六兄弟の中の1人ではありません。
ではどこに居るのか。
粟田口籐四郎吉光は粟田口六兄弟次男
粟田口久国のひ孫に当たり
さらに言えば、粟田口である鳴狐は
長男:国友の孫である【粟田口国吉】の作になります。
----------------------------------------------------------
【長男 粟田口国友】ー子→【粟田口則国】-子→【粟田口国吉(鳴狐)】
【次男 粟田口藤次郎久国】ーひ孫ー【粟田口籐四郎吉光(籐四郎兄弟)】
【三男 粟田口藤次郎国安】
【四男 粟田口国清】
【五男 粟田口有国】
【六男 粟田口国綱(鬼丸国綱)】
-------------------------------------------------------------
ただ吉光に関しては諸説があり、久国のひ孫ではなく
長男の孫である国吉の子であるという説もあり
これに関しては必ずこうであるとは断言が出来ません。
なので
「そうか、籐四郎は粟田口6兄弟の1人ではないんだなー」
くらいの気持ちで見ておいてください。
今後もう少しはっきりした事が分かったら追記していきます。
では、この「粟田口籐四郎吉光」とは
どんな人物だったのでしょうか。
吉光は鎌倉時代中期の刀工で
短刀作りの名人と呼ばれています。
鍛刀だけでなく、書も学んでいたとされ
刀にある銘字も優雅な書体がほとんどです。
豊臣秀吉より、日本刀の世界で最も優れているとされる
名物(天下)三作の一つとして数えられ
多くの大名家などが欲しがったと言われています。
籐四郎といえば、主人を切らない刀としても有名で
その逸話の主となったのが薬研籐四郎です。
薬研籐四郎は当時、室町時代の大名であった畠山政長が所有しており
明応9年(1500年)に敗戦した政長が切腹しようと試みるも
いくら突き立ててても腹に刺さることはなく、苛立った政長
その短刀を投げ捨てると近くにあった薬研を貫いたと言われています。
(薬研:薬剤を粉末化したり、すり潰すための道具のこと)
結局、政長は別の短刀を使い切腹をしてしまうのですが
薬研を貫くほどの切れ味がありながら
主人を決して傷つけなかった刀として有名になり
元亀4年(1573年)献上品として
薬研籐四郎を手にした織田信長は
薬研籐四郎をとても気に入っていたそうです。
しかし本能寺の変の際、安土城より持ち出され
後に豊臣秀吉の手に渡ることとなります。
そしてその他の籐四郎も戦国の武将達が多く所有した為
戦いの最中で紛失したり壊してしまったものも多く
戦火に巻き込まれ、焼けてしまったものもありました。
徳川家康は大阪夏の陣に際し、
焼けてしまった業物の刀を探させ
発見された刀たちは「刀工 越前康継」によって
焼き直されることとなります。
発見された刀の一部として
一期一振
鯰尾籐四郎
骨喰籐四郎
などがあります。
-----------------------------------------
ところで、ちょいちょい出てくる「銘と号」って
なんだか分かりますか?
粟田口籐四郎が打った刀なのに
籐四郎がついてない刀もいますよね。
今回は五虎退や一期一振を例に記述させていただきますね。
まず前提として把握しておいてほしいのが
銘というのは
刀工が打った際に刀の茎に刻む名前のこと
号というのは
銘とは関係なく逸話などからつけられた名前のこと
であることです。
基本、銘の部分には刀工の名前がつけられます。
「刀工 粟田口籐四郎吉光」であれば「銘:薬研籐四郎」になりますし
「刀工 粟田口国綱」であれば「銘:鬼丸国綱」となります。
号が無く、刀工の名前のまま呼ばれる刀もあります。
(例:前記事 陸奥守吉行)
そして、その後にニックネームのように付属されるのが号です。
つまりは、薬研も乱も厚も
最初は号の無い「籐四郎」だったということです。
ただし五虎退や一期一振に関しては「銘:吉光」でした。
粟田口籐四郎吉光が籐四郎を銘に刻み始めた時期より
前の作であることが理由としてあげられます。
なので五虎退や一期一振の正式な名前としては
「五虎退吉光」「一期一振吉光」です。
五個退といえば、お迎えした際に本人が言うように
5匹の虎を退けたことが元となって号になっていますし
一期一振は、粟田口吉光が生涯の中で打った唯一の太刀(一振り)でるという理由からこの号がつけられました。数多くの短刀を打った吉光の唯一と聞くとこれは確かにドロップも鍛刀も中々出来ないわけですね…(まだお迎えできていない)
号と銘のことを知っておくと刀剣を見る際に混乱しなくて良いと思います。
そして、号の数だけその元となる話があると思っていいです。
というわけで、今回は籐四郎兄弟について少しお話させていただきました。
ちょっと長くなってしまいましたが
皆さんの本丸運営に少しでも面白さを足せたら嬉しいです。
それでは今日の本丸刀剣調査はこのへんで!
ありがとうございました!